In order to understand what happened in the period before Nagoya Castle was built and flourished, we would like to introduce our research on “Nagoya Castle”, the predecessor of the present Nagoya Castle, and the Atsuta Plateau, which was the inspiration for the construction of the castle.
名古屋城が築かれる前の名古屋は?
名古屋は、江戸時代に入って名古屋城が築かれてから一気に繁栄しました。
しかし、それまでの名古屋は農村地帯だったと思われ、尾張の中心地は清須でした。
江戸時代に名古屋城が築かれたことに伴って、尾張の中心地が清州から名古屋に移されたことは「清州越し」と呼ばれています。
戦国時代には、現在の名古屋城のあった場所に「なごや城」という城がありましたが、軍事的な拠点に過ぎなかったのです。
しかし、このなごや城のことを調べているうちに、名古屋市の地形の1つの特徴が見えてきました。
なごや城とは
地形のことをお話しする前に、まずはなごや城について簡単に説明します。
なごや城は、現在の名古屋城の二の丸あたりに存在していました。
築かれた時期は、現在の名古屋城が築かれるよりも80年余り前の大永年間(1521~1524年)で、織田信長が生まれる少し前です。
築いたのは駿河(現在の静岡県)の守護大名・今川氏親(今川義元の父)の指示を受けた一族の武将で、最初は「柳ノ丸」と呼ばれた砦のようなものだったそうです。
当時の尾張は強力な統治者がおらず、はるか遠くにあった駿河の今川家が、現在の名古屋市あたりまで勢力を伸ばしていたのですね。
のちになごや城は、今川義元の弟の今川氏豊が城主となりました。
しかし1538年(天文7年)頃、織田信長の父・織田信秀の謀略によって氏豊は追放されてしまい、なごや城は織田家の支配下に入ります。
1546年(天文15年)には信秀が古渡城に移ったため、なごや城はまだ少年だった信長が城主となりました。
しかし信長も、1555年(弘治元年)には当時の尾張の中心地だった清須城に移りました。
その後のなごや城は、信長の叔父の信光や重臣の林秀貞の居城として存続していましたが、1582年(天正10年)には廃城となってしまいます。
なごや城のあった場所の地形
さて、地形の話に移りますが、なごや城は天然の要害の上に建てられていました。
というのも、この地はテーブルのような地形の北西の端にあり、周辺の地域と比べてかなりの高低差があったのです。
その小高い地形は「熱田台地」と呼ばれ、なごや城のあった辺りから熱田神宮の辺りまで続いています。
さらに、台地の北側には広大な池と湿地が広がっていたので、北からはなごや城に近寄ることすら容易ではなかったでしょう。
現在の名城公園内にある「おふけ池」がその名残で、昔はもっと大きな池だったのです。
なごや城の北側は崖だった?
熱田台地の北西の端に建てられたなごや城。
北側はほとんど崖のような地形だったそうです。
元々ここに城を築いたのが、南東部から進出してきた今川氏だったので、北からの攻めに対して守りを固めるには絶好の場所だったのでしょう。
熱田台地とは
熱田台地とは、現在の名古屋市の中央部に位置する台地です。
上空から見ると南北に長い逆三角形で、周辺の地域よりも少し標高が高い地形になっています。
熱田台地を地図で見ると、以下のようになごや城のあった辺りから熱田神宮の辺りまでの地域を占めていることが分かります。
さらに、道路や線路を非表示にしてみましょう。
市街地化している現在では、市内を通っていても高低差が感じにくいですが、こうして地形だけを見てみると台地の様子がよく分かりますね。
なごや城のあった場所を拡大してみると、熱田台地の北西の端で周囲より高い位置にあることも分かります。
熱田台地の北の端は、長い年月をかけて庄内川などによって土地が削られたため、高低差のある地形になりました。
河川による浸食があったために、熱田台地の中でも特に急勾配な地域になり、崖のような地形になったのですね。
熱田台地の存在が分かる坂道
なごや城が建てられた時代には、絶壁のような斜面だったという熱田台地の北部。
現在のように市街地化した名古屋でも、わずかながらその名残を感じられる場所があります。
実際に見てみたくなって、名鉄瀬戸線「森下駅」のあたりから、尼ケ坂・白壁あたりを経てなごや城跡を目指して歩いてみました。
森下駅を過ぎたあたりから、こんな感じの急勾配が次々と現れます。
自転車で登るにはちょっと苦労しそうな勾配です。
冬に凍結したら大変だろうなと感じました。
さらに西へ進み、尼ケ坂を登って振り返ると、このような急勾配。
金城学院中学校の近辺にも、このような急勾配があります。
運動部の生徒さんには絶好のトレーニング場所になりそうだけど、見通しが悪いから危険でしょうね。
白壁から清水口方面に向かう途中にも、いくつかの急勾配がありました。
ここはコンクリート舗装で、滑り止めの窪みがついています。
清水口を越えて、三の丸方面に向かう途中にも、このような坂があります。
なかなかの急斜面ですね。
名古屋城の東の端にあたる三の丸に到着。このように土塁と空堀が残っています。
三の丸を過ぎると、名古屋城の天守閣が見えてきます。
なごや城のあった二の丸の北側に到着です。
名城公園の「郷土の森」あたりから「二之丸庭園」方向を見てみました。
今は石垣になっていますが、なごや城のあった頃は、熱田台地の勾配による天然の要害だったのでしょう。
現在は、崖のような地形はもちろん見られませんが、高低差から当時の様子がしのばれます。
当時、ここには広大な池があって、舟から見上げるような高さの上に那古野城があったのでしょう。
現在のなごや城跡には、このように石碑のみが残されています。
まとめ
昔は崖のようだったという記録を見かけたために、「本当だろうか」と実際に確かめたくなって足を運んでみましたが、熱田台地による高低差が感じられる場所がたくさんありました。
地図で見た地形を、実際に歩いてみて感じることができるのはワクワクします。
なごや城が廃城になってから20数年後に、再びこの地形に目を付けたのが徳川家康で、巨大な敷地を持つ名古屋城が築かれました。
その後の名古屋の繁栄はご存知のとおりです。
なごや城跡を見上げて、まだ名古屋が栄えていなかった昔の姿を想像してみるのも、趣深いかもしれませんよ。
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